【影山萌子「よそのうち」】
あたらしい風景
横浜美術館 主任学芸員
木村絵理子
美術の長い歴史の中では、風景画ほどに、それぞれの土地や文化の反映として展開してきた画題はないだろう。宋代の中国で文人たちによって描かれた瀟湘八景や、17世紀ヨーロッパの風景画を牽引したクロード・ロランやニコラ・プッサンを例に引くまでもなく、風景画とは多くの場合、眼前に広がる現実の場所をあるがままに描き出すこと以上に、理想化された桃源郷として像を結んできた。時代が下り、工業化や戦争を経て理想的風景という共有の概念自体が瓦解した後は、シュルレアリストが描き出す不条理な光景のように、画家個人の無意識の発露として、あるいは象徴的な意味を持った心象風景として機能するようになる。こうした風景画の歴史に依って立つ時、影山萌子もまた、現代の風景画家として、今世紀の世界観を描き出す作家として捉えることができるのではないか。
個展「よそのうち」に出品された作品群について、影山は東京の都心部をイメージして描き出した絵画であると語る。ギャラリー内の最初の壁に展示された《ジェットファン》や《スカイウォーク》は、一見いずれも開発で切り拓かれた山間の高速道路のような、自然界へ侵蝕する人工的な構造物を描いたように映る。しかし、影山にとってこれらは、自身が育った都心部の風景、所謂コンクリート・ジャングルと呼ばれるような都市風景に対する眼差しの反映であるというのだ。都会に生まれ育った影山にとっては、自然/有機物と都市/無機物は相反するものではなく、境界線の曖昧な地続きの存在であり、加えて、いくつかの作品の構図には、かつて見たハリウッド映画の一場面などが影響を及ぼしていることにも言及する。自然と人工物、フィクションと現実の境界すらも侵蝕し合う影山の作品世界。しかし、一見荒唐無稽にも映るこうした「風景」に対する感覚は、決して彼女が特殊な感覚の持ち主であることを意味するものとばかりも言えない。実際のところ、我々は一体どれだけ、自分の目だけで「風景」を見ているだろうか。雄大な自然の風景も、身近な都市空間も、外界に対する我々の視覚情報は、多かれ少なかれ実際に見たものだけでなく、映像や写真といった第3者の目を通したイメージや、切り取られ、加工された情報まで、すべてがない交ぜになって記憶されている。また多くの都市生活者にとっては、手つかずの原生林よりも、都市空間の方に親近感を抱くくらいには、有機物に囲まれた生活から遠ざかっていることもまた事実だ。かつて漫画家の手塚治虫は、ライフワークとなったシリーズ『火の鳥』の「復活編」において、再生医療によって身体の半分以上が機械化された主人公を登場させて、彼にとっては人間が土くれのような遠い存在に感じられ、ロボットの方が生身の人間のように見えたり、溶鉱炉が清らかな川のように見えてしまうといった現象を描いたことがある。自然と機械が分かち難く対立する概念としてあった1970年当時、これは機械化が進んだ未来に対する恐怖を描いたものであったかもしれないが、生身の自然同様に(あるいはそれ以上に)、ヴァーチャルな世界に慣れ親しんだ現代においては、この物語にはまた別のリアリティが感じられる。そして、知らず知らずのうちに「機械を通した世界」を内在化させた自分たちの感覚について思いを至らせる時、影山の描く「風景」は、確かに都市生活者の見る世界としてのリアリティを獲得して見えてくるのである。さて、こうした風景画のことを、後の時代には何と呼ぶことになるのだろうか。